表現の自由における事後規制について

内容規制と内容中立規制をわけるのが通説的理解だと思うのですが、中大の橋本基弘先生などはそもそも内容中立規制とは名ばかりで実質的には内容規制であることがほとんどで二分できるのか疑問であると批判しています。この批判は説得力があると思ったのですが、通説はなぜ分けているのでしょうか。それとも、この批判は説得力に欠けるのでしょうか。
2017年7月3日
公法系 - 憲法
回答希望講師:伊藤たける
回答:1

ベストアンサー ファーストアンサー
伊藤たけるの回答

ご指名ありがとうございます。

私は、そのような議論を「なんでも厳格審査基準論」とは名付けています。

研究者としてそのような主張をするのは自由ですが、実務家になりたいのであれば、裁判所が受け入れることのできる理論構築とすることが重要です。
そもそも、裁判所は、議論の理由よりも「すわり」や「結論」を重視する傾向にあります。
もし、裁判所がすわりを意識しない裁判官ばかりになれば、内閣はそのような最高裁判事を指名しないようになるだけでしょう。
優れた実務家を目指すのであれば、そのようなパワーポリティクスの観点も忘れてはなりません。

仮に、なんでも厳格審査基準論を採用したとして、ビラ貼りもOK、ビラ配布のために外の郵便受けではなく部屋のドアの郵便受けに入れるために個人の管理する敷地内に立ち入ることもOKとなってもよいのでしょうか。
私ならば絶対に反対しますし、仮に反対しないお立場でも、反対する人が相当数いるだろうという感覚がないとすればバランス感覚を欠いているとしかいえません。

表現内容規制と表現内容中立規制の二分論は、アメリカ連邦最高裁が採用した議論です。
しかし、表現内容中立規制の違憲審査基準も、現実に即して若干緩やかになっています。

日本の最高裁は、そもそも二分論すら採用していません。
そんな中で裁判所に受け入れられやすいようにするためには、まずは二分論を採用したうえで、行動を伴う表現規制については別枠とする現在の通説の到達点を力強く主張するべきではないでしょうか。

いかに論理的に説得力あるとあなたが感じる理論でも、それが社会に受け入れられなければ画餅に帰すだけです。
他人に対して「なぜ理解できないのか」と嘆くだけでは、社会は変えられません。
実務家を目指すのであれば、何が社会に説得できるのかという視点を忘れないようにしましょう。

2017年7月3日


匿名さん
なるほど、それを言ってはおしまいというわけですね。
議論の理由よりも「すわり」や「結論」を重視するというのが、事案を見て趣旨を媒介に規範を変形させていくという法的三段論法の仕方に通ずるものなのかなとも感じました。

2017年7月3日