表現の自由の問題で、権利の重要性で「知る自由に資する」という理由づけをいつ書くかについて

あらゆる表現が表現の受け手の知る自由に資すると思うのですが、営利的自由の問題(h18)の上位答案、インターネットの問題(h23)の上位答案などで権利の重要性を述べる際に「知る自由に資する」という理由づけを使っているのを目にします。

どういう表現の場合に「受け手の知る自由に資する」という理由づけを書いてよいかその線引きがわかりません。

ご教授よろしくお願いします。
未設定さん
2016年1月29日
その他 - その他
回答希望講師:加藤喬
回答:1

ベストアンサー ファーストアンサー
加藤喬の回答

 表現の受け手に対する考えについては、判例と学説とで温度差があります。
 
 学説上、表現の自由については、「情報をコミュニケイトする自由」(芦部先生の表現)や「自由な情報交換」(「憲法講義(人権)」赤坂正浩‐信山社/19頁)と表現されることがあり、そこでは、表現される情報が国民の政治参加にとって有益かどうかということが重視されていません。ここでは、情報な自由な流通自体に意味を見出していると思われます。

 これに対し、判例上は、例えば、博多駅事件決定が、報道機関の事実の報道について、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供するものであることを理由に、国民の知る権利に奉仕するものであるとして述べています。このように、判例は、表現される情報が国民の政治参加にとって有益かどうかということが重視されています。

 なので、表現される情報が国民の政治参加にとって有益なものである場合には、博多駅事件決定のように、「知る権利に奉仕するもの」であるということを論じることができますが、反対に、表現される情報が国民の政治参加にとって有益であるとはいいがたいような場合には、「知る自由に奉仕する」ということは論じないほうがいいと思います。

 表現については、事実上、常に受け手の存在が予定されているため、「受け手の自由に資する」ということを理由にすると、情報の表現がなんでも重要であるということになるからです。

 表現される情報が国民の政治参加にとって有益であるとはいいがたいような場合については、情報の自由な流通という視点から論じるのが無難かと思います。

2016年1月31日


未設定さん
すごくわかりやすかったです!いつも本当にありがとうございます。

2016年1月31日