表現の受け手に対する考えについては、判例と学説とで温度差があります。
学説上、表現の自由については、「情報をコミュニケイトする自由」(芦部先生の表現)や「自由な情報交換」(「憲法講義(人権)」赤坂正浩‐信山社/19頁)と表現されることがあり、そこでは、表現される情報が国民の政治参加にとって有益かどうかということが重視されていません。ここでは、情報な自由な流通自体に意味を見出していると思われます。
これに対し、判例上は、例えば、博多駅事件決定が、報道機関の事実の報道について、国民が国政に関与するにつき重要な判断の資料を提供するものであることを理由に、国民の知る権利に奉仕するものであるとして述べています。このように、判例は、表現される情報が国民の政治参加にとって有益かどうかということが重視されています。
なので、表現される情報が国民の政治参加にとって有益なものである場合には、博多駅事件決定のように、「知る権利に奉仕するもの」であるということを論じることができますが、反対に、表現される情報が国民の政治参加にとって有益であるとはいいがたいような場合には、「知る自由に奉仕する」ということは論じないほうがいいと思います。
表現については、事実上、常に受け手の存在が予定されているため、「受け手の自由に資する」ということを理由にすると、情報の表現がなんでも重要であるということになるからです。
表現される情報が国民の政治参加にとって有益であるとはいいがたいような場合については、情報の自由な流通という視点から論じるのが無難かと思います。
2016年1月31日